ゲームカードとしてのマルセイユ・タロット

✳以下ロクサーヌさんのサイトよりまま抜粋

 

ジーン・ノブレ(Jean Noble)のタロット
(パリ 1650年) フランス国立図書館に収蔵されたオリジナルと復刻版

この素晴らしく華麗なタロットの斬新さは、その時期と特別小さいサイズに表れています。
マルセイユ」版(Marseille)の最古のタロットとして知られています。たくさんある

特徴のひとつとして、通常は「名指し」とされてきた「Arcanum XIII」を、「デス」(Death)として表現したことです。

ノブレはドダル(Dodal)と違い、彫刻家の名人が伝統の知識を弟子に継承した時代に属する人です。

Dodalの名無し

Camowanの番号なし

ノブレは、他の追随者に比べても最も出典に近いものとされています。それは彼が大いなる関心をもっていたからでしょう。専門家や特別な詳細にこだわるすべての人にとっては、吟味してみたいものがたくさんあります。

私としては、むしろアルカナの絵柄にある2つの異なったしぐさに注目していただきたいと思います。素晴らしい作品の証拠ともいえる純粋で毅然としたもの、また反対にあまりにも「初歩的」ともいえるものがあります!

 

この作品の年を考え、日々熟考した結果、私はこれはまさに達人の最後の仕事だとの印象を受けました。年齢や病気の原因で、全ての作品を一人で仕上げることはできなかったのです。一部のイメージは完成したものか、あるいはすべて描かれたものか、どちらにしても根気強い人物が描いたものですが、隅々まで完全に正確なものでありながらも彼の技が欠けているのです。

※復刻版の画像はインターネットタロット美術館でご覧になっていただけます

復刻版 画像の直リンク

原版も、掲載のご許可申請

 

「Devil」(悪魔)、「World」(世界)そして「Wheel of Fortune」(運命の輪)がこの範疇に入ると思います。

ノブレのタロット
ジーン・タロット
パリ 17世紀中頃
カード73枚 (78枚のうち) イタリアの象徴

木版画、ステンシル 彩色  多層紙 92 x 55 mm
背景: 六角形のモチーフ 「Maltese cross」(マルタ十字)
マーク:

 

1.ノブレ AV FAV/BOVR ST GERMAN (盃の2)
IEAN NOBLET DMT / A V FA VBOVR ST GERMAIN (コインの2)

I.N. (戦車上の盾)
正式名称 IPCS: IT-1

剣(Sword)の6から10の5枚のカードがないにもかかわらず人気のセットで、特別に小さなサイズがこのタロットの魅力でもあります。

カード作家名人のジーン・ノブレは、コインの2の旗と盃の2のカルトシュに、彼自身を特定するヒントをくれました。彼はパリのファボルグ サンジェルマンで暮らしたといわれています。1659年の二つの公証手続きには、「サンジェルマン・デプレ、ル セント サンサルピス教会区」に住んでいたとの記述があります(A.N.,Y 197, n°s 3161 et 3162)。既に1664年のD’Allemagneにはパリのカード製作者ジーン・ノブレの名が記載されています(D’Allemagne 1、309)。この偉大なる学者が、ジーン・ノブレの名前が出てこない時期にこれらのカードが18世紀のものであるとするのは、気になる点です。

 

→「この偉大なる学者」が 誰なのか原文からは訳出できず

 

そのため、このデッキの出所は17世紀中頃であり、ジャック・ヴィーヴィルのタロットと同時期のものだといえます。この年代のおもしろい事実は、このデッキがすべての面で「マルセイユ版タロット」と一致することで、これが最初に挙げられる例であります。


「デス」(Death)と名前がついたことは話しました。戦車の盾にジーン・ノブレットのもイニシャルと思われるI.N.の文字があります。カードの裏は、ヴィーヴィルのデザインそっくりです。同じモチーフがアノニム パリジャン(Anonyme Parisien)のタロット(カテゴリー番号33)の裏にもあります。


タロットゲームの歴史

1375年にイタリアのフローレンスに「naibbi」(ナイビ)といわれるトランプが出現し、14世紀末には西ヨーロッパ全体に普及しました。ナイビとはタロットの原型なのか、トランプと絵札は後から加えられたのでしょうか。。全くわかりません。

 

ローマとフローレンスの間に位置するヴィテルべの町の1377年の公文書には、運や金銭がものをいうゲームの規制もしくは禁止を求めた最初の布告が記載されています。これらの記録によると、ナイビが「サラシン」 ハイル("sarrasin" Hayl)によってイタリアに持ち込まれたものだということです。ここから数多くの禁止事項が設けられました。

 

ほとんどカードがそろった最初のタロット(78枚中74枚)は、15世紀初期(1420年から1425年)にきたもので、ヴィスコンティ スフォルザ公(Visconti-Sforza)のタロットです。これは「ピエポント・モーガン バーガム」(Pierpont Morgan Bergame)として知られ、ボニファシオ・ベンボ(Bonifacio Bembo)により描かれたそうです。君主のタロットとして、11種のデッキからなる239枚のカードがあります。大型の分厚い厚紙に手描きされたもので、ゲームとしては使われなかったはずです。

 

基本ゲームに21+1枚のカードを加えた物がイタリアでは、トリオンフェ(TRIOMPHES)と呼ばれ、フランスではアトウトまたはトランプ(ATOUTS or "trumps")と呼ばれました。1から21まで番号のついたカードと、「Excuse」(言い訳)、「Fool」(愚か者)或いは、「Mat」(マット)と呼ばれた無番号の22枚目のカードが、他を支配し勝利を保証するのです。

 

庶民にタロットは大人気でした

賭博の道具としてすごい勢いで広がりました。

当時の支配階級をも魅了し、その時代の優れた画家によって描かれた君主のタロットを多数入手しました。ヴィスコンティ スフォルザ タロット (ミラノ 1425年) 「チャールズ6世」(Charles VI)のタロット(北イタリア、15世紀末)など。これらのタロットは予言のためだけに使われたと思われます。

一方で、数は限られていますが、人気のある彩色ステンシルで木版画の16世紀のタロット(カテリン・ジェフリーのタロット)と、17世紀の人気のタロット(ジャック・ヴィヴィル、ジーン・ノブレとアノニム・パリジャンのタロット)があります。

 

原型的なマルセイユ版のタロットは、18世紀中頃マルセイユ在住のニコラス・コンバー(Nicolas Conver)が作業場で製造したもので、編集者のルクアートとグリモードが、1890年ごろにタロットカードとしての遊び方を提案した時にその型を使ったのです。ポール・マルソーがそれらの作品をベースに、1930年に象徴的なタロットを製作しました。

 

→ この部分はロクサーヌ氏なりの「マルセイユ版」の定義

 

ポール・マルソーは、自分自身のことを単なる修復者に過ぎないといいましたが、彼の生きた時代に秘教と結び合わせたことから、オリジナルのものを制作したといえます。マルソーが複製したといったコンバーの1760年のタロットが、はっきりとした証拠です。マルソーのタロットは、複数の言語に翻訳され世界的な成功をおさめましたが、その背景には、「修復者」としての技術もさることながら編集者が流通に努めたことがあげるでしょう。

今日では、マルソーのマルセイユ版がベストセラーを記録したタロットで、占いのために使われています。

がしかし、マルソーはコンバーの作品の「コピー」を制作しましたが、XVII the Starを妊婦として描かなかったのです。

 

実際のところ、妊娠した創造的な境遇にある女性で、伝統的な知識を持っている象徴であります。マルソーは意識して彼女の左のひざの下に布をかけましたが、左のひざの覆いを取り外したことが、伝統的な証のひとつであることが知らなかったのです。

 

しかしマルソーは色に関しては、画像内容を無視していたことが見受けられます。ライトブルー(大洋化作用に連想させる色で、胎児の環境のような知覚を表現し、直接的には我々を取り巻く世界につながっているものを意味する)がもはや存在しないことと、影がある場所とそれの占める割合が、かなり変更されています。

 

コンバーは直接この印象の意味を捉えた最後の一人で、若い女性が水辺でひざまずき、水を注いでいる女性の姿を描きました。

 

Arcanum XVIIは支配者のステージに属し、この姿は妨げをうけることありません。ライトブルーの色を多く使っていることから、ひらめきを強く感じます。決まった場所に少しだけ濃紺の色を用いて、長年培ってきた経験を駆使して、これまでの度重なる試練と立ち向かうことができたことを示しています。これらのニュアンスを考えてみると、マルソーの構想がいかに意味をなさなかったがわかります。この変形した「伝統的」といわれるタロットが、後にほとんどのマルセイユ版に悪影響を与えたのです。

 

時代は変わります。現在20世紀末において信憑性の必要性が求められるようになりました。

新型や「適合された」タロットなどに、信じられないくらいの多様性を求めるよりも、源に帰ることが必要なのです。

私はノブレとドダルのタロットの両方の大アルカナを再編集しました。伝統を敬い、原型を厳守することが、最優先事項であると認識しました。長い年月がたち劣化したものや、継承した編集者が経費削減のために数が減ってしまったものを修復することもとても大事だと思います。

 

 

18世紀の終わりにコート・ド・ゲベリン(=クール・ド・ジェブラン)は、大躍進するフリーメーソンの見地にたって、タロットはファラオのエジプトから伝わった古代の隠された知識を表現しているのだと主張しました。

 

19世紀には、このようなタロットの捉え方が全面的に受け入れられ、居酒屋でのゲームとは違うものとして、もっと深遠で神聖なものだと受け止められるようになりました。

 

20世紀には、これらの2つの捉え方が共存するようになりました。一方では、同盟(Federation)と呼ばれるゲームとして深遠なものが全くないものが、エピナル社を代表とする人気の出版社から発行されました。それには、スペード、ハート、ダイヤモンドとクラブの4つのトランプのマークが使われました。それと反対に、芸術的かつ神聖なタロットも量産されました。これはトランプに使われるものではありません。

 

 

マルセイユ版 タロット

タロットの大アルカナ(22枚増えたトランプ)は、人生を通したそれぞれの旅を暗示したもので、輪廻転生から解放を示しています。

ミラノ版の作品は、イメージを作る人が考えたもので、マルセイユ版のタロットによっても表されています。「ミラノ版」というときの名前はその場所ではなく、その様式を示しているものです。

 

とにかく、最古に印刷されたデッキは、マルセイユから出現したものではなく、17世紀中頃、ジーン・ノブレ(Jean Noblet)がパリのアトリエで製作したものです。


その後、ジーン・ドダル(Jean Dodal)(リオン 1701年・1715年)のタロット、ジーン・ピエール・ペイエン(Jean-Pierre Payen)(アヴィニョン 1713年)、及び有名なニコラス・コンバー(マルセイユ 1760年)が発表されました。

 

ピエモンテ(Piedmontese) の絵柄のものは、作業長や石工が作ったもので、ボローニャ(Bologna)タロットとして知られています(これ自身はルーエン―ブラッセル伝統の作品)。

 

その代表は主にジャック・ヴィーヴィル(Jacques Vieville)のタロット(パリ、1650年)に示されています。

マルセイユのタロットは、ボローニャのものとは画像的に大きな違いがあります。

arcanum XVIの中に、「Devil」(悪魔)に関しては、その横顔ではなく正面からの顔を描いています。

 

arcanum XVIについては、“House of God”(神様の家)で炎につつまれている塔が、木の根元に立っている、群れを引き連れた羊飼いに置き換えられています。

 

arcanum XVII中の星は妊婦が建築家に代わり、arcanum XVIII中の月はザリガニの入ったプールが、スピンドルをもった紡績工にかわっています。

 

→現状認識では、ヴィヴル版の後に、マルセイユ版が確立 という流れだけれども、実はもっと過去においてマルセイユ版と称されるタロットのデザインについては多様性があったと、変化の流れがあったことが示唆されています。

 

15世紀の初めに出現した芸術的なタロットは(第3版?)のものだといわれる人もいるでしょう。これは皇室のデッキからでてきたもので(たぶん予言に使用されたもの)、前述したように今日にも受け継がれています。

サルバドール・ダリでさえ、自分のタロットを描いたのです!

このように美しい作品からうちなる意味を引き出そうとしても無駄です。正真正銘の伝統の科学よりも美学的思想が完全に優先されるからです。

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訳文担当日本タロット占術振興会