人生はチャンスに満ちているということ、易道学校では小アルカナの部に入って、改めて1枚ずつお伝えするにつけ、20代、30代ではわからなかったマイナー・アルカナの数々のメッセージに目を覚まされる思いでいます。
ティファレトの段階の6の札は、もうチャンスではなくて、一定の成果を示すもの。
あの喜び、「美しき調和」を求め、わたしたちは日々探究を続けるのだろうけれども、それは偶然マジカルな現象として降ってわいてくるわけではなく、ゲブラーとネツァクという流れの中にあるもので、前後は避けて通れない。
ウェイトの小アルって地味でパッとしない札が多い。むなしく、重苦しい時期を経て、一瞬、通り過ぎることができる「美しき調和」がありはするが、日常の大半が、コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、ネツァク、ホド。なんかなあという中途半端ないいんだかわるいんだか、という茶飯事にもみくちゃにされ。イェソド(月)の段階に至っては完全な自己の思い込み。。
しかしまあこうやって「日常」をひも解けるウェイト&パメラのアートワーク、やっぱりあっぱれなものではないでしょうか。
Pamela Colman Smith: The Untold Story
ところで易道学校ではタロットの理解を深めるアルカために生命の樹を対応させて解説していますが、必ずしもこれが正しいやり方だというわけではありません。カバラや生命の樹抜きにした授業だってたくさんあるでしょう。
ですが、なぜもこう「生命の樹」は人をとりこにするのでしょう、この「生命の樹」は。そしてこれらをタロットに結び付ける試みに、人はなぜ沸くのでしょうか?
それだけ生きるということが、人生というものが、辛いものだということなのではないでしょうか。いちいち、そんな風に考え、納得しながら、生きながらえていくしかないのが人類なのです。
ここ、重要な気がして。「生命の樹を理解しよう」と、字面、絵面ばかりこねくりまわしても。
今日も明日も生きねばならない現実は何も変わりません。
誰が好き好んで、自分の子どもを痛めつけて死に至らしめるのか。相手が他人だからといっていじめ殺すために、誰が生まれてくるのでしょう。誰もそんな人はいないと思う。性善説などではなく。金正恩だって、好き好んで北朝鮮の書記長になりたくて、生まれてきたわけではないんですよね。
誰も皆、魂と肉体ひとつで世に出てきた。好き好んで出て来たわけではない。わけがわからないままに大きくなって、気が付いた時にはもう結構なものを背負い込まされて、逃げ出しようもなくなっていましたと。生きなきゃならないと。宗教団体に救いを求めたという方もいらっしゃいますが、あれはまた諸刃の剣でしたでしょ。
救いが得られない場合は最悪、罪人になって、殺してもらおうという人間も出てきてしまうの、まあわたしがそういう感覚に陥ったことすらありませんが、頭の中では何となくわかります。でも誰もがきっと一生懸命に、そんなスイッチが入らないように、いわゆる自分の中でバランスを取りながら、日々を暮らしているのでしょう。生きるのなんて、こんな世の中なんて、嫌で嫌でしょうがない。でも仕方ない。もっと普通に素直に認められるといい気がしますよね。
そんな日常の風景が描かれているウェイト版。マイナーアルカナはメジャーにくらべてどれもこれも多くが殺風景だ。しかもわかりづらいんだけれども、そこにチャンスを見出す作業が、それだけでもうセルフ・カウンセリングになるようなものもありそうです。
この絵の読み解き作業、ナディア・オフィスでのセッションにはもっと取り入れていく所存です。
せっかくのウェイト版。使って、人が幸福感をかみしめる段階へと、お導きできる占師でありたいものです。
そうそう、堀ちえみさん、ああいうお方はお強い、お幸せでしょう。
「家族のために、生きなければ!」そんな風に自分の命を使おうという目的を持てている方は。
うちにも相変わらず死にたくなっていらっしゃる方がおりますが、死にたくなるようなときは、その命、誰かにくれてやることだって。ことばが荒くてすみませんが、いいじゃないですか、死んだつもりで他の人のためにただ生きていれば。誰でもいいから、その人の役に立って、その人が生きられるのなら、それはもうすごい、幸せなことなんだから。
人でも、モノでも、動植物でも、何でもいい、あなたが居るから生きている何かがあるって。その命は必ず誰かの何かの役に立っているはずだから。
そうやっていつか最期の時まで、有意義に命を使ってまいりましょうぞ。
去年の黒いコートを引っ張り出して、先日は校長先生のご葬儀へ。
ふとポケットにまた何と去年の初詣で引いたおみくじが。
第47番 中吉
教え:反省とは、自分を責めることではなく、自分をありのままに知る事である。
ガーン。完全に取り違えていた。
もうかれこれ6、7年、お会いしないままお別れとなってしまいましたが、先生が荻窪のよみうり文化センターのタロット講座にわざわざいらして下さり、易道学校へお導き下さいました。それはわたしにとってもエポックメイキングで、タロットを掘り下げることができる夢のような時間に直結したのでした。
恐れ多いことですが、おみくじのことばを、先生からの最期のメッセージと勝手に解釈させて頂いだ次第。
易道学校の帰りはいつも「自己嫌悪タイム」で、自分なりに反省していたつもりでしたが、確かにダメ出しするだけでは。自分を責めるのではなく、自分の傾向を把握して、受講生の皆様ひとりひとりに有意義なものとなる授業を、日々構築していくことなのですね。
ただ、易道学校では体制が大きく変わろうとしており、純粋なタロットの授業が難しくなります。どこか別の場所でしっかりお伝えできる場を探したいと思案しています。