タロットの「本当の勉強」をしたかったから。その頃、既に、電話や手紙のタロット鑑定をさせていただく中で、独学の壁を感じ、十代の頃から著作を読みあさっていたルネ先生の研究所へ一直線。 幸いにして、「教えてあげるから、無償で仕事を手伝いなさい」と仰って下さったルネ先生だった。感謝と驚きとで不思議な時間を過ごした当時がまざまざとよみがえります。
兎にも角にも、当時体重が40kg程度しかなかった、見るからにやせ細って青い顔をしていた自分のような人間を、「こいつヘンだよ」扱いすることなく。他にも、お父様がいないというお弟子さんが居れば、「オレが親父だ」と言ってあげるような、何というか人間らしいでしょう。そういうところで、幼少期のうんちゃら心理学的コンプレックスの話など持ち出すようなことはしない、ホントにみんなと並んで「普通に人として」向き合って下さる、そういうルネ先生でした。大御所の元で仕事をできるようになったと、私は浮き足だって、早速色々と質問したり、このタロットの絵札の意味はどう、解釈はこう、先生の姿を見るたび質問しようとするのだが、それには答えようとはしてくれない。
ルネ先生は「まあ焦るな焦るな、占い師になるっていって、お前星も読めないようじゃ、しょうがないゾ」。
正直内心「えーっ」。だって、西洋占星術には関心がなかったから。その頃には、、小学校2年生くらいかと思うが、兄から「12星座」というものを聞かされて以来、これは何なのか、当たるのか当たらないのか、その正体を、中学、高校、その時それぞれの立場で色々と考えていたものだったが、二十歳を過ぎる頃には「こんなの馬鹿馬鹿しい」だった。同じ星座の友だちだって、顔も性格もゼンゼン違う。これあもう古代の遺物でしょうと。
それよりも、タロット! これが故か出るのよ、その場その場の真実が。急場をしのいでいける超常的な雰囲気たっぷりのタロット原理主義と化して、これで十分じゃないと。
それだけれども、与えられる仕事の中で否応なく星の勉強が最優先事項になっていった。仕事としての受容は、12星座の占い原稿が最も多いのですから。
そうして、今まで単なる太陽星座の大ざっぱな占いにしか触れたことがなかった私は、360度の円周というステージで、様々な個性でもって織りなす10惑星のドラマに圧倒され、また、急激に魅せられるようにもなっていった。人の欠点・長所、言いたいのに言えない、好きなのに素直になれない複雑な心理が如実に反映されているホロスコープに。
ルネ先生に育てていただいた私らの世代は、先生の『「占い」の本質を心理学、文化人類学、宗教学の一分野として捕らえる』傾向が多分に強い。日本の占術界を背負って立たれていたルネ先生の思想、ですが、それでもまだまだ世間では逆風も強い。
占いは、蔑視・軽視の対象とされやすい。なかなか認められず、仕事になりにくく、自暴自棄になって身を落とすやからも増えるという悪循環も、大きな問題かもしれない。
そんな中で、こうして自分が占術を生業として会社を運営させていただけていること、これはもう一重にルネ先生との出会いなくして、あり得なかったことだろう。
先生の元で職業占い師としてのノウハウを学ばせていただき、占い館を紹介もしていただいた。色々な経緯があって、望んだわけではないがその館を出た、半ば追い出された時には、もういきなりフリーになって、これはもう自分は占いではやっていけないだろうと思った。○○鑑定所とかに出ているからお客さんが来てくれるのであって、いきなりひとりで独立したって、、ああもう何か別の仕事を探さなきゃ!と求職活動に動き出そうとした矢先に、ポツリポツリと鑑定や原稿の依頼をありがたくいただけて、とにかくいただける仕事をこなす内に今に至っています。
基礎がしっかりしていたことが幸いでしょう。ルネ先生に、占いとは、占い師とは何かという、根本的なところをたたき込んでいただけたからでしょう。こういう骨が、どんな仕事でも重要になってくるのでは。
この方に、師事させていただいたこと、これが自分の最大の幸運なのかしらとさえ思う。それだけに打撃が大きいが、先生御自身は、きっと前向きに旅立たれたことだろう。「これでよかった」という幕引きだったはず。
ルネ先生は、多くのたくさんのメッセージを世に残された。私も、不肖ながらも同じことを、まだまだ広く人々に理解してもらえたらと。先生の研究所に掲載されている先生の最後のコラムが下記です。
ホントに私もコラムの通りだと。世の中の多くの問題が、「人としての思いやり」で解決できるはず、いやもっと言えば、それがあれば問題を発生させることもないはずなのに。
vol.28「メール言語症候群」 新しい時代のコミュニケーションツールとして、コンピューターのメールがすでに一般化しています。これからますますメールによる交流が盛んになると思います。しかし、利便性の影には案外大きな落とし穴があります。その落とし穴を『メール言語症候群』、あるいは簡単に『メール性格』と呼ぶことにします。メール性格は、自動車の『ハンドル性格』と似ているところがあります。おとなしい人がハンドルを握ると突然凶暴になるあの心理現象。それがメールにもあるのです。普段はとても温厚で物分りのよい人が、メールになると突然、人が変わったような文章を送りつけてきたりするあの現象です。
原因はいくつかあげられます。まず、送信者の文章が稚拙なこと。心理状態以前に文章での表現能力が低いために相手の心に真意が伝わりにくい。あるいは、伝えられない。活字離れが進んできた現代は、ますます、表現能力が低下しますから、メールでの表現トラブルは多くなるでしょう。
次に、思いやり欠如の時代の反映。21世紀は『利己主義の世紀』です。お金の前にはいかなるモラルも屈服するという時代背景の中で、人々の心はすでに荒廃してしまいました。私は、東京がB29の大空襲を受けて本当に一面の焼け野原になってしまった廃墟の状態を目の当たりにしましたが、それと同じようなレベルで壊滅的に心の荒廃が進んでいると思います。地上には立派なビルが立ち並んでいますが、人の心は戦後の廃墟のままです。いや、あの頃よりももっと荒廃しているかもしれません。自分の主張を押し通すことが正義だという時代。他者に対する思いやりが紙よりも薄くなった時代。自分以外の誰も信じない時代。『衣食足りて礼節を知る』という言葉がありますが、どうやら人間は『衣食が足りれば礼節を忘れる』生命体なのではないでしょうか。生きていること自体にうんざりする人が増えるのもわかるような気がします。淋しいことですが、大多数の人にとって生甲斐のある時代ではなくなりましたね。したがって、メールの文章も『読んだ人がどう感じるか』という思いやりは稀薄です。思いっきり、自分の言いたいことを歯に衣を着せず言い切ってしまう。相手のことは眼中になし。メールという機能は、チャットは別にして、一方的に攻撃しても即応した反撃はありませんから、痛くも痒くもない。メールを打っているうちにテンションがヒートアップして、ますます、言い募る。「言わずもがな」、なんてレベルは遠の昔に飛び去って、とことん書きまくってしまう。究極の結果として「女子高生メール殺人事件」のようなことが起きるのです。
そして、メールは「欲求不満解消のツール」であるということ。さまざまなメールの文章を心理学的に分析してみますと、発信者の潜在的不満や抑圧概念などが噴出していることがわかります。特に解決できずに持ち続けているような潜在的不満や抑圧を発散するにはメールは格好の機能です。不満や抑圧を『我が正義』に置き換えて言い募るにはメールは非常に有効です。また、メールという機能は『皮肉を言うのに好都合』にできています。普通、顔を見ていては言えないようなきつい皮肉をすんなり言えてしまうのです。しかし、それを一方的に読まされる側はたまったものではありません。瞬時に口頭で反論できないだけに『怨念の反芻』という現象が起こり、恨みが募ります。相手にも不満と抑圧が生まれるのです。
メールは、また、『思い込み発信のツール』でもあります。人間関係のトラブルのほとんどの原因は誤解と思い込みですが、メールという機能は一方的発信ですから、思いっきり『思い込み』を書き込みます。思い込みの強い人は、慎重な性格のように思いがちですが、実は、粗忽な人が多いのです。きちんとした原因も見極めずに、自分が正義だという思い込みで肩を怒らせて書き込みをします。後で、それが思い込みであったということがわかったとしても、すでに、相手は感情を害していますから、人間関係修復には時間がかかったりするでしょう。恐ろしいのは、相手が感情を害しているだろうなどという察しすらもつかない人が増えていることです。
このようにメールという最先端の機能は、本質的に人間性の高いツールではありません。私は、メールはせいぜいメモ程度に使い、大切なことは、電話なり面談なりでお互い血の通い合ったコミュニケーションにするように心がけています。ぜひ、あなたは悪しき『メール性格』や『メール言語症候群』にとりつかれないようにしてください。あなたの周囲にそういう人がいたら、このコラムをコピーして差し上げていただけたら幸いです。
よりよい日本の社会づくり、被災した日本の復興にあたって、人の心、「思いやり」というものに、目を向けてもらえる時が来るのだろうか。。経済的復興にばかり、多くの人の目が向けられているようでならない。
何かあれば政治がわるい・経済がわるいの一点張りの今だけれども、決してそうではないでしょう。
自らを唯一無二の太陽に喩え、他の主要惑星との関わり方でもって論じる占星術は、自分中心でしか見れないこの世の中にあって、いかにして他者と調和できるか、利己を認め、それを打ち砕くことができるかを説く一種の哲学でもある。
かみ砕いて言えば「みんなで輪になる、みんなと仲良くする」ための術だ。仲良くできずとも、摩擦を起こさず、たがいの心を思いやり合えるよう、私も努力したい。
ルネ先生の心がずっとずっと息づく占術界で努力をしていかれるよう、今日は改めてしたためました。
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posted by ステラ・マリス・ナディア・オフィス at 09:00|
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